波紋と水槽 目の前を通り過ぎて行く泡沫。 暗い足元から明るい頭上へと浮かび上がる様を、もうどれくらい眺めているのだろう。 「君も飽きないな…」 ふと、背に声を掛けられた。 この静寂の色に染まった空間に良く似合う低い声。 どこかの太陽を背負った様に輝く彼が発する低い声とは、似ている様で全く異なる。 そう思うと、自然と口元が緩んでしまった。 似ているだなんて、言ったらどうなる事か… 「無理に付き合わせちゃってゴメンナサイ…」 振り返らずに、そう伝えると彼は腕を組んで私の横に並んだ。 「まったくだ、とは…言いきれないな」 そう肩を竦める彼の横顔を見詰めながら、何故?と沈黙で先を促す。 「なに、私も案外…この場を楽しんでいる。という事だよ、たまには良いものだな…」 「昔からね、好きなんだ…水族館。」 青い照明に浮かぶ相手の柔らかい表情に、自分も笑顔で応える。 「でもこうやって来るのは久しぶり…子供の頃も数回行ったか、行かないか…」 硝子越しに、目の前の数十トンにもなる水に手を伸ばす。 「深くて冷たくて灰暗い、でも…蒼くて静かで綺麗で、泡粒が水面上に浮かんで行く様を見てると、何か希望に満ちた感覚になる…」 (いつかは、自分もあの光の中に浮かび上がれたらと) 「生活の中で当たり前に触れる存在も、こうして見方を変えれば…確かに幻想的で美しく見えるがね…」 溜め息混じりに紡がれる言葉。 先程の柔らかさは感じられない、普段の皮肉屋な口調のまま彼は続ける。 「それでも本質は変わらないものだ…雰囲気を壊してしまって申し訳ないが、所詮はこの幻想的な場所も人が理想を持って造り出した贋作に過ぎない。」 「確かにそう、だね…」 自分が思い描く、都合の良い理想像を真正面から打ち砕かれた気がした。 胸がチクりと傷むのは、彼の言葉が『真実』だから。 本当の事を言い当てられた時ほど、心が傷む事はない。 再び沈黙が訪れる。 遠くで響く家族連れの会話が、確かにこの場を現実だと繋ぎ留める。 「…やっぱりダメ」 自分に言い聞かせる様に、小さく噛み締めた言葉が沈黙を破る。 ゆっくりと彼を見詰めながら続きを口にする。 「いくら偽物だって分かってても、本質が変わらなくても、この感情は…嘘にはならない。こうして貴方と一緒に過ごしている時間を、私は幸福だと思うし…貴方も少なからず、そう思ってくれてるんでしょ?」 「……それは、」 「なら、それだけで良いんじゃない?」 彼が眉間に皺を寄せて次の言葉を探している間に、先を奪う様に問い掛けを続ける。 「堅苦しいのは無しにして、素直にその感情に溺れてしまったらダメなの?」 美しいものは美しい、好きなものは好き、酷く当たり前で単純な考えに、裏付けなど必要ないのだ。 そう真正面から伝えると、彼は小さく溜め息を吐いて苦笑した。 「…まいったな。―――君には敵わない」 その表情は何処か穏やかに見えた。 諦めとは違う、長年の疑問にやっと答えを見出だした様な…そんな清々しさを感じる。 「もっと感受性豊かにいきませんと、脳ミソまで硬くなっちゃいますよー?」 何だか落ち着かない心境を隠す様に、わざとおどけて彼の左胸に軽く拳を叩きつけた。 それは困る、肝に銘じておこう。 と、彼も少し笑みを溢しながら返してくれた。 何度目かの沈黙が訪れる。 ただ静かに浮かんでは消えていく白い沫を、二人で眺めていた。 そこへ閉館を知らせるアナウンスが響き、お互いに一度顔を見合せ、どちらともなく出口へと歩き出した。 水槽から反射して、足元を淡く照らす波紋状のうねり。 まるで影踏みをする様に歩きながら、出口付近まで来た所で思い付いた様にポツリと呟く。 「誰だったかな…泡沫を『無常』だなんて例えた人、私は同じ物を見ても真逆の意見なんだけど」 「かつ消え、かつ結びて…というやつか」 「そ、本質は変わらないとしても、受ける印象と考えまで見た人全員が同じとは限らない。経過する時間の中で変わっていく可能性だってあるでしょ?」 そんな会話をしていると、すぐに出口へと辿り着いてしまった。 先程までの蒼一色だった世界から一変して、外はオレンジ色の街灯で暖色に包まれて明るかった。 表通りに出るための階段を降りている最中、並んで歩いていた彼が急に私の手を取って立ち止まった。 「… 、」 「ん?」 珍しい事ではないが、急に名前を呼ばれると… やはり無意識に心拍数が上がる、手を掴まれている部分が若干熱い。 視線を繋がれた手から上に移せば、彼と目線が合う。 慌てて「あ」と、お互い顔を横に伏せる。 気不味い雰囲気の中、ゆっくりと彼が口を開く。 「君さえ良ければ、今度は俺に…誘われてくれないか」 気のせい、かと思ったが…確かに彼は今、普段の一人称ではない呼称を使った。 それはつまり、彼にとって今紡がれた言葉は… 特別な意味合いを持って発せられたもの… 「……それは、どう受け取るべき?」 頭の中で色々な考えが浮かんでは消えていく。 とてもじゃないが、顔は恥ずかしくて上げられたものではない。 そんな私に彼はまた皮肉屋っぽく上から鼻で笑い、余裕に満ちた声音で続ける。 「君の意見と私の意見では違う可能性が高い、ならば…答えは君にしか解らないのだろう?」 「うぐ……」 反論すら出来ずに口をつぐんでいると、とどめを射す様に彼は耳元で低く囁いた。 「素直に溺れてしまっても構わんのだろう?」 「そ、ソレとコレとは別問題っ!!!」 |